医療法人さほり眼科、大阪府東大阪市の眼科、コンタクトレンズ指導・取扱
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院長のひとりごと(2006年)

  2005年度の日記一覧

7月20日

後医は名医

11月1日 市場経済原理主義者たち

12月1日

今の日本に一番必要なものは何?

  後医は名医

院長のひとりごと(2006年7月20日)

 先日の木曜日、Nさんという37歳の女性が来院された。1週間前にめまい、呼吸困難、頭痛、気分不良があって救急車で近くの総合病院を受診し、頭部CTなどの検査もしてもらったが特に異常はなく、内科で痛み止めなどの内服を処方されたという。前日の晩より右目のかすみ、横を向くと物が2重に見える、痛み止めを飲んでも右目の奥の痛みが治まらない、ということで受診された。
 診察すると、右目の瞳孔が左に比べると少し大きくなっていること(瞳孔不同)とやや右目の動きが悪い以外は眼底にも視力にも問題はなかった。軽度ではあるが動眼神経麻痺が疑われた。動眼神経麻痺であれば眼球よりも後部の脳内での異常を疑わねばならない。先日の頭部CTでは異常はなかったということだが、CTではわからない異常もありうる。神経眼科のスペシャリストはなかなか少ないので、専門である大阪赤十字病院の柏井先生に診てもらい、必要ならもう一度脳外科的な検索をしてもらったらよいだろうと考えた。Nさんには柏井先生への紹介状を書いて4日ほどあいてしまうが柏井先生の診察日の月曜日に受診するように説明した。
 翌金曜日の午後6時ごろ、Nさんより電話があり、目の奥の痛みが治まらないという。おそらく脳外科的な検索をもう一度しないと原因はわからないだろうと思ってはいたが、とにかく診察しましょう、もう一度来てください、と言った。診察すると、瞳孔不同、眼球運動障害はより顕著になり、眼瞼下垂まで生じており、動眼神経麻痺は明らかでかつ急激に進行していた。脳動脈瘤を疑い、直感的にこれは月曜日まで待てないと思った。金曜日の夜では病院でも詳細な検査は望めないのでとにかく土曜日の午前診のある河内総合病院の脳外科に直接受診してもらうよう急遽紹介状を書き直し、即日入院もありうるかもと言い翌朝一番に行ってもらうことにした。
 土曜日の午前中に返事のFAXがきた。果たして、緊急で脳MRA撮影した結果、右内頚動脈の動脈瘤であった。即日入院の上緊急手術となり、脳血管造影検査、脳動脈瘤クリッピング術が施行され事なきを得た。開頭下での術中所見では脳表にくも膜下出血は見られなかったが、深部の動脈瘤周囲はくも膜の肥厚・癒着が高度であり、反復した出血の既往が疑われるということであった。ひどい眼痛はくも膜下出血のためと考えられた。
 Nさんは10日後に退院されて、翌日、一番にお礼を言いたかったといって来院された。右目の動眼神経麻痺は後遺症として未だ残り閉瞼したままではあったが、命拾いをした、もう少しで手遅れになるところだったと大変感謝された。眼科の疾患で命に関わるほど急を要する事などめったにない。命に関わるところであったので本当にうまくいって良かったなと思った。それと同時にもし最初に動眼神経麻痺を疑わなかったらどうなっていただろうか、あるいはもし金曜日にNさんが電話をかけて来なかったら月曜日の診察まで間に合っただろうか、などと考えるとぞっとした。一歩判断を誤れば感謝どころか逆に恨まれる事態になったかもしれない。
 患者さんにしてみれば最初の時点でどうして病気がわからなかったのだろうということはよくある。医者の間では「後医は名医」という言葉がよく使われる。時間がたてば症状や所見がはっきりして情報量が増えて診断しやすくなるので後に診た医者ほど“名医”になるのである。後医が前医を批判することはたやすいが、それは極めて不公平である。例えば今回の件でも最初の時点で動眼神経麻痺の徴候があったかどうかは不明だが、内頚動脈瘤を疑って血管撮影までするのは困難であろう。また、もし木曜日と金曜日と別の医者が診たなら金曜日に診た医者の方が“名医”ということになるだろう。後になって動眼神経麻痺の症状がはっきりしてきたからこそ脳動脈瘤を疑ったのである。幸いNさんは最初に見てもらった医師に不満を持っている様子もなく、またたとえ目の症状が後遺症として残ったとしてもこの症状のおかげで命が助かったのだから、と事態をよく理解をしてくれていた。
 後医が前医の医療を批判することが医事紛争の火種になるケースが最も多い。後医は前医をかばうというのではなく、「後医は名医」という言葉を肝に銘じて謙虚さを持ち、無用なトラブルを避ける心構えが必要である。と同時に患者さんにもこの言葉とその意味を是非知っておいてもらいたいと思う。

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  市場経済原理主義者たち

・市場経済原理主義

 熱狂的な国民的支持で小泉政権ができてから5年、日本では「イスラム原理主義者」ならぬ「市場経済原理主義者」たちが政治を主導してきた。竹中前大臣に代表される彼らは小泉前首相のブレインとなり、「聖域なき改革」と称して破壊してはならないものまで壊し始めている。
 彼らの思想は「日本のアメリカ化」ともいうべきものであり、すべての分野に競争原理を持ち込んで効率化・合理化をはかることである。もちろん効率化や合理化が悪いわけではなく、必要な所は多々あるが、問題は「すべての分野に」というところにある。医療を含む社会保障や教育の分野にまで全く例外なく競争原理・市場経済原理を持ち込むことは非常に危険である。特に医療分野においては歴然たる医療格差に悩むアメリカの医療の現状を見れば一目瞭然である。
 彼らが厄介なのは、彼らがこのやり方を自分たちの利害に関わらず、「絶対正しい」と思い込んでおり、他人の意見を全く聞かないことである(だから“原理主義”なのである)。小泉前首相は実際には彼らに政策を丸投げしただけなのに、「ぶれないことが大事」と言ってはばからず、そのパフォーマンスで国民の喝采を受けた。
院長のひとりごと(2006年11月1日)


院長のひとりごと(2006年11月1日)

・拝金主義の蔓延

 私は共産主義者でも社会主義者でもなく、自分では外交面など思想的にはむしろ「右寄り」と思うくらいであり、小泉前首相を支持できる部分も多々ある。しかし、オリックスの宮内氏のような最も利害関係があり利益誘導したい立場の人間を改革のエンジンと位置付ける経済財政諮問会議のトップにつけ、規制緩和をやりすぎた結果がどうなったのか? ホリエモンや村上ファンドのような人々が成功者として持ち上げられ、若者たちは彼らのように額に汗をかかずに一獲千金を得たいとあこがれ、心を失い拝金主義がはびこった。
 大企業は会社を防衛するためリストラを行い、正規社員を減らし保障の要らない派遣社員や請負、さらには偽装請負といわれるような非正規雇用を大幅に増やした。ニートやフリーターが大幅に増え、たとえ職についても十分な社会保障はなく、労働のモチベーションはあがらない。一生懸命に働いても年収は200万円を切り、働けど働けど収入が上がらない「ワーキング・プア」と呼ばれる人々をも大量に生み出した。彼らの一部はホームレスになり、簡単には這い上がれない状態にある。これを「政治の責任」と言わずしてどうするのか。

・医療に市場経済はなじまない

 私を含め医療関係者の大半は「医療に市場経済はなじまない」と考えている。市場経済原理主義者たちの医療、あるいは介護・福祉・年金までも含めた社会保障分野に対するスタンスははっきりしている。
 今回、経済財政諮問会議の委員に入った八代尚弘国際基督教大教授は彼らの後継者のひとりで社会保障分野を主導するものと思われる。彼は、10月5日付の読売新聞のインタビューでも「高齢化社会にはさまざまな成長産業が存在している。特に医療では、すべての医療費を公的負担で賄うという発想を変えて、政府が責任を持つ公的医療と民間に任せる医療の二つがあると考えれば、民間の医療ビジネスが発展できる」とはっきり答えている。理念の違いと言えばそれまでだが、これは完全に経済人の発想であり、社会保障の基本理念をわかっていない人の考え方と思わざるを得ない。

・民間の医療ビジネスとは何か

 民間の医療ビジネスとは何か。今でも民間病院はあるが、これとは本質的に異なる。
 ひとつは株式会社の医療への参入である。つまり、経営に関しては素人の医師ではなく、医師の資格がなくともプロの経営者が病院経営をできるようにするということである。問題は医学の素人にすべて決定権があることであり、医学的な判断より経済的・経営的な判断が優先される可能性が非常に高くなる。ただ、今の制度のままでは儲からないので株式会社が医療に参入してくることはないが、混合診療の解禁や外国人労働者の医療への参入などの規制緩和が参入のための条件となっている。
 民間企業が医療に参入すれば、収益をあげることが第一になる。このような病院はきれいで広い病室、質の良い食事などアメニティの充実は当然のこと、腕の良い医師を高給でスカウトし、医師周辺のマンパワーも豊富で看護やその他のケアも至れり尽せりとなり、この病院にかかっている患者さんは大満足、ということになろう。お金さえあれば、いくらでも素晴らしい医療が受けられるわけである。お金持ちの中にはその方が良いという人も多くいるだろう。
 しかし、患者はもう「患者」でなく、もはや金銭を払ってそれに対する相応のサービスを要求する「お客さん」になってしまう。従って、医師がいくら患者を診たくても、経営者にとってみれば金を払わないものにはたとえ良いサービスがあっても受けられなくて当たり前、うちのような病院には来るな、金のない人でも診てくれる安物の公的病院に行きなさい、ということになる。

・貧富の差がそのまま医療の質の格差につながる

 お金さえ出せばホテルのスイート並の病室や豪華なフルコースの食事の提供が受けられる、そんな病院ができることは全然構わない。一番問題なのは貧富の差がそのまま医療の質の格差にまでつながる可能性が高い点にある。
 このまま混合診療が解禁になれば風邪などの軽い病気や逆にコストのかかる検査や薬も徐々に保険診療から外され、自費診療になっていくだろう。いきなり変えずに少しずつ少しずつ個人の負担を増やしていくのが役人のやり方であることは、老人医療の窓口負担の上げ方を見ればよくわかる。まさに命を金で買う時代になっていく。金持ちほど腕の良い医者にかかり、管理の行き届いた質の良い医療を受けることができる。
 経営者が営利を追求すれば当然救急や小児科、産科などリスクの高い(すぐに医者が訴えられる!)不採算部門は切り捨てられるか又は非常に高いコストが請求されることになる。医療のおいしいとこ取りをして割の合わないところは公的医療に押し付ける、そういった民間企業がはびこることが果たして本当に良いことなのだろうか。

・もうひとつの医療ビジネス

 もうひとつの医療ビジネスは医療保険ビジネスである。混合診療が解禁され、徐々に公的保険が縮小されると、切り捨てられた保険診療が自費負担になるので、それをカバーするための民間医療保険の需要が拡大していく。この保険は今あるような現金給付型医療保険ではなく、医療を受けるための現物給付型となる。
 現金給付型は入院したら1日5,000円とか、手術したら30万円とかお金がおりるという種類の保険である。現物給付型は現行の健康保険のように国や市町村や勤務先の保険組合が保険者となり、医療にかかった費用を保険者が医療機関に支払うシステムである。ここに民間の保険会社が参入して保険者になると、民間会社は利益優先であるから自分の会社が損になるような支払は絶対に認めないので、かける保険料の高い安いによって受けられる医療の質が保険会社によって勝手に決められてしまうようになる。すなわち、「このランクの保険ならこの病院しかダメです」とか、「入院日数は4日しか認めません」とか、「この薬は高いので使えません」など、医師がしたくなくても医療の質を落とさざるを得なくされてしまう。今のアメリカの医療状況がまさにそうなのだ。ここでもお金がなければ十分な医療が受けられなくなることになる。
 これらの病院経営や医療保険ビジネスへ積極的に参入したいと思っているがオリックスやセコムなどの企業である。「ビジネス・チャンスを拡げたい」といえば聞こえは良いが要するに「金儲けをしたい」一心であり、彼らは市場経済原理主義者たちの尻馬に乗っているのである。

・市場経済原理で医者はどうなるのか

 このままもし医療の市場経済化・自由化が進んで国民皆保険制度が崩れると医者はどうなるのか。腕の良い、あるいは人気のある医師はより高額の報酬を得、無理して仕事をせずとも患者を選べるようになり、体力的にも精神的にも楽になる。一方、実力や人気のない医師は患者が減り、医者の間でも経済格差・労働格差が広がっていく。
 自由診療の美容外科と同じ世界がすべての科に広がる可能性がある。カリスマ美容師と同じように、カリスマ医師がもてはやされ、億万長者のセレブ医師がたくさん出現するかもしれない。そう、自分の生活、保身だけを考えれば、腕に自信があり、実力のある医者にとってこの方向は決して悪い話ではないのだ。
 医者は金を儲け過ぎだ、という批判がある。しかし、早い人でも30歳を過ぎて一人前の医師になるまでどれだけ薄給か、家族を犠牲にしながらどれだけ体と心を酷使しているか、医者かその家族の当事者になって初めてわかる人も多い。勤務医といえども所詮会社勤めのサラリーマンと一緒、開業医にしたっていくら高額所得者といっても本質的には街中の電気屋さんやレストランなどの個人商店主や中小企業のオーナーと同じである。日本において、保険診療をしている医師の中で小金持ちはいても大富豪の開業医などいないのである。ただし、保険診療をせずに、美容整形など自由診療(医療の値段が医師の言い値で決まる)をしている医者はまた別で、セレブな方もいらっしゃるようだ。

・医師は何故市場経済原理主義に反対するのか

 では何故医者は市場経済原理主義のやり方に反対するのか。腕に自信のない医者ばかりだからなのか。医者の間で格差が広がることが嫌だからなのか。
 一見、質の悪い医師は淘汰されて良いことだと思う人もたくさんいると思うが、果たしてそうだろうか。患者にとってみれば重病でお金のない人は腕の良いベテラン医師には診てもらえなくなり、実力のない医師や新人の医師にしかかかれなくなる可能性が高くなる。実力のある医者にすれば、経済的な面や労働条件だけから見ればこの方向は決して悪い話ともいえない。むしろ歓迎すべきはずである。しかし、こんなことを望んでいる医師などほとんどいない。そんなに金儲けをして良い暮らしがしたいのなら皆とっくの昔にホリエモンや村上ファンドのような投資家なり起業家なり会社の経営者なりを目指していたであろう。
 医師の中で、良い暮らしをしたいことを一番の理由に医者の道を選ぶ者などほとんどいない。医師の仕事は自分や家族の生活をある程度犠牲にしないと成り立たない職業なのである。決して楽で儲かる職業などではない。
 医師を志す者はみんな、病気に苦しむ人々を救いたい、人々の役に立ちたい、という気持ちが原点にある。みんな患者の喜ぶ笑顔が見たい、そして一言「ありがとう」とねぎらってもらいたいのだ。
 ある程度損をしようが、手がかかって効率が悪かろうが、リスクが高かろうが、場合によっては全く無駄とわかっていようが、それでもやらねばならないことがあることを医師はみんなわかっている。だから医療に携わるものはこのような経済主導の医療制度改革に抵抗するのである。効率優先の経済人とは根本的な哲学が全く違うのだ。

・現在の日本の医療制度が最も優れている点

 現在の日本の医療制度で最も良い点は何か。保険証1枚あれば、わずかな自己負担で誰でも平等に日本国内のどこの病院でもどんな医師にでも診てもらえる点(和製英語だがこれを“フリーアクセス”という)である。情報さえあれば、どんなに遠くでも誰でも自分の病気にあった専門医を探して治療を受けることができるし、自分の意思で自由に主治医を替えることだってできるのである。日本人はこんなことは当たり前のことと思っているが決してそうではない。制限されている国はいくらでもある。
 市場経済原理主義による今の医療制度改革ではこの“フリーアクセス”の利点が消えてしまう可能性が高い。つまり、アメリカのように、お金がなければ患者が自分の意思で自由に医師を選ぶことができなくなるのだ。

・もっと医療の現場を見ろ! 患者の声を聞け!

 「事件は現場で起きてるんだ!」 ヒット映画「踊る大捜査線」の中で織田裕二の演じた青島刑事が、自分たちのエゴむき出しで衝突を繰り返す警察上層部連中に対して吐くセリフである。まさしくその通りである。医療の現場を全く知らない連中ばかりを集めて一体何を決めようというだろうか。医師あるいは医師会がいくら正論を言っても「既得権益を守るため」とマスコミに決めつけられ、バッシングの記事ばかり報道される。そうしないと新聞も売れないし、視聴率も上がらないからだそうだ。
 先日のNHKの医療番組を見ても税金の負担が多少多くなっても高福祉の社会(ヨーロッパ型社会保障)を求める国民の声が圧倒的に多い。経済原理主義者たちの目指す方向は低福祉低負担(アメリカ型社会保障)である。経済界や財務省の役人は経済の活性化を最優先し、生産性のない医療にかける税金の投入をできるだけ減らしたいと思っている。そのために、患者の一部負担金を上げたり、民間に医療を請け負わせたりして、無駄を省くと称し、医療の質を落ちようがそのことには目をつぶろうとしているのである。
 国民の多くはどちらのタイプの社会保障・医療制度を望んでいるのだろうか。財務省や市場経済原理主義者たちは国民の求める方向と全く逆の方向を突き進んでいるようにしか思えない。市場経済原理主義者・財界人との綱引き、言い換えれば経済至上主義と人道主義との綱引きである。このままズルズルと引っ張られて行って本当に良いのか。医師とともに患者サイドがもっともっと大きな声をあげ、風見鶏のマスコミを巻き込んで政治家を動かしていかなければこの方向が変わることはまずないであろう。

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  今の日本に一番必要なものは何?

院長のひとりごと(2006年12月1日)
院長のひとりごと(2006年12月1日) 

 小泉前首相は最初の所信表明演説で「米百俵」の逸話を出して教育の重要性を説いたにもかかわらず、退陣するまでの5年間、教育問題については結局ほとんど何もしてこなかった。安倍首相が総理就任後すぐに教育問題に取り組む姿勢を表明したことに注目している。
 国会では教育基本法改正問題が審議され、「愛国心」をこれに盛り込むのか、表現をどうするのかなど議論されているが、今の日本で大人も含めて本当に必要な教育は何か、を以下の事例を通して考えてみたい。
 キーワードは「礼」である。すなわち、礼儀作法、礼節、英語で言えばマナー、そういったものが今の日本で、失われ欠けた部分であり、その部分が最も必要なものだと思う。最近の新聞の世論調査を見ても道徳心の欠如を指摘する人が非常に多くなっている。

1、国旗・国歌
 学校の卒業式などでの国旗掲揚、国歌斉唱の義務付けとこれに対して反対する人々について。
 国旗・国歌の問題は何も愛国心の問題ではない。これこそ礼儀・礼節の問題である。自国の国旗・国歌を軽んずるものは他の国々の国旗・国歌をも軽んずる。国旗・国歌を大事にすることはその国の文化と伝統を敬い、尊重することであり、これをないがしろにすることは「礼」を失すると言わねばならない。教育すべきは「愛国心」ではなく、「礼」の心なのである。
 よく中国や韓国で抗議運動の中で日本をはじめ他国の国旗を焼いたり、サッカーの試合前の国歌斉唱にブーイングを浴びせたりする光景が見られるが、先進国ではそういう光景はほとんど見かけない。こういう行為でその国の民度がうかがい知れ、他国に恥をさらしているようなものである。一時、アメリカでも日本バッシングが盛んな頃、日本製のラジカセをハンマーで叩き壊すパフォーマンスをした議員がいたが、これも幼稚な行為で成熟した大人のすることではない。
 戦前の軍国主義につながるからという理由で、日の丸・君が代に反対する人々がいる。ならば日の丸・君が代にかわるべき国旗・国歌を提案し、民意を得た上でかえればよい。国からの強制でなく、国民の大多数が日の丸・君が代を日本の国旗・国歌として認めている以上、その事実には従うべきである。特に教育者の中で、自分がそれを気に入らないからといってそれらを敬愛する姿勢を拒否することは他国の文化をも否定することにつながり、その考え方を生徒に押し付けるということは教育者としてあるまじきことだと思う。

2、たばこ
 歩きたばこをしている人間の多さに驚く。受動喫煙、こどもへのやけどの問題は当然のことながら、彼らの99%以上が路上にポイ捨てをする。
 ハワイでは公共の場での喫煙はすべて禁止になったようである。事実上、家の中でしかたばこが吸えなくなったらしい。最近は日本でも少しずつ規制が厳しくなりつつあるが先進国の中ではダントツの喫煙天国である。たばこの値段を欧米並みの価格(今の2~4倍)にすれば喫煙者は減り、医療費は削減され、税収もさほど落ちないのだが(イギリスで実証済み)、たばこ関連産業の反対や税収低下を恐れる財務省などの消極的姿勢でそうは簡単にいかないようだ。
 禁煙に成功したヘビー・スモーカーで、禁煙後に他人のたばこの煙を吸って初めて、こんなに臭くて不快なものだったのかと非喫煙者の苦しみに気付いて驚く人も多い。喫煙者はたばこの煙に麻痺していて全く苦にならないので、非喫煙者が煙たがるとそんなに大した事でもないのに大げさに言ってわざと意地悪しているように思うらしい。
 私はたばこの煙が大嫌いである(喫煙者の皆さん、ゴメンなさい)。その場でたばこを吸っていなくても、喫煙者と会話したり、電車の中などで隣に座ったりするだけでも、過敏すぎるのかその人の呼気だけで咳が出てしまう。喫煙者が肺がんや肺気腫になるのは自分の勝手だが、受動喫煙の害、特にこどもがいる場での喫煙は絶対にやめて欲しい。
 さらに、路上での喫煙、歩きたばこをする人のマナーの悪さは目に余る。たばこのフィルターは自然には分解しない。商店街や駅のホームでも所構わずポイ捨てをする。自分の家の前にゴミを撒かれたらどう思うだろう。たばこは火事の原因としてもトップクラスである。あまりの想像力のなさと無神経さにはあきれかえるばかりである。学生服を着て自転車に乗りながらたばこを吸っている女子中学生まで見かける。大人たちが平気でしていることでこの子たちを叱れるだろうか。他人に迷惑をかけているという意識がいかに希薄か、ここにも「礼」の無さがはびこっている。

3、電車の中
 電車の中での光景は私が若い頃とは一変してしまった。
イヤホンから外に漏れ聞こえるほどガンガンにして音楽を聞きながら足を広げて腰をずらして座る若者。優先座席があるからと思っているのか、老人や妊婦が乗ってきても席を譲る気配すら無い。場もわきまえず、両側のシートに座って大声でしゃべり続けるオバサン連中。車内の地べたに座る若者たち。車内で化粧する若い女性。遠足で大勢乗ってきて車内の座席を占拠してはしゃぐ小学生とそれを咎めない先生。こどもたちが車内でも他人に迷惑がかからぬようにおしゃべりをさせず、席が空いていても座らさないように先生が指導するのが当たり前ではないのか。そんな学校や先生ももはや数えるほどしかない。
 逆に中には席を譲らぬことに怒って怒鳴ったり、席を譲られても礼のひとつも言わずに周囲に不快な思いをさせたりする老人もいる。若者の中にも体調が悪いものや何がしかの事情がある場合もある。
 若者たちだけの問題ではない。こどもから老人に至るまで日本の国全体にモラル・ハザードが蔓延しているようだ。

4、学校で
 50分間座って話を聞けない、授業中立ち歩く、私語を止めない、先生の注意を無視する、先生にタメ口で話をする、果ては先生に暴力をふるう、など、学級崩壊は低年齢化して今や小学校で起きている。他人に迷惑がかかろうが、全体の規律を乱そうが、そんなことはお構いなし、何をしたって自分たちは法的に守られている、先生が手出しをすれば先生の負け、ということを彼らは良く知っている。
 まず、先生に限らず年長者を敬うという基本的な態度(=礼節)が全く失われている。以前はこのようなことはわざわざ教えられるものではなく、周囲の大人たちの振る舞いを見て自然に社会生活の中で身についていくものであった。学校で愛国心など教える必要はない。きちんとした礼節や道徳観さえ身につけば祖国愛・郷土愛的なものは自然と芽生えてくるはずである。
 こどもたちは大人社会の鏡である。こどもたちの間で起こっているいじめや学級崩壊、体力の低下など心身の乱れはまさに大人の社会の荒廃・閉塞感を反映している。何もこどもたちがすべて悪いわけではなく、本当に教育が必要なのは大人の方である。
 しかしながら、家庭や地域での道徳教育が機能不全に陥り、範を垂れるべき大人が全く当てにならない現在、学校の場での道徳教育を強化することは緊急避難的に必要なのかもしれない。もし教育の場で手を打つというなら、内容的にかなり工夫する必要はあるが、まず「道徳」の時間を増やし、小学校1年生から6年生に至るまで徹底的に「礼」の心、人を思いやる心を叩き込むべきではないか。

5、亀田兄弟
 ボクシングの亀田兄弟の態度が批判されている。何故か。相手に対する「礼」を失しているから不快なのである。非常に幼稚で未熟な人間に見えてしまう。全く戦争を肯定するわけではないが、例えば戦争という最も悲惨な殺し合いの場でさえ、相手の立場を尊重し、民間人は殺してはならないなど、最低限のルールが存在する。ましてやスポーツの世界である。戦う相手を貶めたり辱めたりする態度、すなわち礼節を欠く態度には人間性が感じられない。

6、ホリエモン・村上ファンド
 ホリエモンや村上ファンドに好感が持てないのは何故なんだろうかと自問自答してみた。彼らが金儲けがうまくて贅沢な暮らしをしていることに対するやっかみなのだろうか。そうではないように思う。
 やはり彼らの行動の中に「礼」の心やモラルといったもの、一般の経営者が企業や会社に持つような「愛情、愛着」といったものが全く感じられないからではないのか。彼らは多額の資金をかき集め、法の不備や盲点をついて陰で株を買占め、会社の乗っ取りをたくらんだり、株価を吊り上げる操作をして高値で売り抜けたりし、結局逮捕されたがルールは破っていないとうそぶく。
 農家の人であれ自動車工場や部品工場で働く人々であれ、世の中の人々の役に立ちまた喜ぶものを作りたいとか、医者ならば人の病気を治したいとか、検事なら世の中から悪をなくしたいとか、水商売ですらお客さんに安らぎや楽しみを与えたいとか、みんな何かしら人々の役に立ちたい、なるべく多くの人々が幸せになり満足が得られるようにしたいという思いがあるように思う。ホリエモンらには、仮に一部の顧客の満足はあったとしても、世の中の多くの人々に対するそういう思いが全く感じられない。


 少し前まで日本人が持っていたもの、いろいろな識者が言うところの、恥の文化、惻隠の情、武士道精神、思いやりの心、礼節、道徳、和の心、などいろいろな表現があるであろう、今の日本ではこういったものがどんどん失われつつある。
 かわりに日本人の中に入ってきたものが、利己主義、個人主義、合理主義、拝金主義、能力偏重主義、不道徳などである。上辺だけアメリカ型価値観を輸入し、日本文化の良い面を破壊した結果である。
 アメリカ文化にもそれなりに良い面もある。自己主張をはっきりするが、他人の意見も尊重し、他人の顔色をうかがったりはしない。個人主義だが、自己責任が強く、結果が悪くても納得する。アメリカには日本では考えられない大富豪もいるが、彼らの多くは慈善団体に多大な寄付して社会に還元することが当たり前に求められている。
 アメリカ人は、祖先がヨーロッパからアメリカ大陸に移住してきて開拓を勧める中、先住民族(いわゆるインディアン)と争い、自分や家族の身は銃を持って戦い自分で守るといった個人主義の精神が強く、それとともに隣人愛や同胞愛などのキリスト教的な慈愛精神をも併せ持っている。要するに彼らの行動規範は、彼らの持つ文化・伝統・宗教的バックボーンに根ざしたものであることをよく理解する必要がある。彼らの文化の中には行き過ぎた個人主義や合理主義を補完するものがある程度あるのである。

 バブル期前後から日本型の会社経営が批判され始め、バブルに踊った企業の経営不振と相まって企業にアメリカ型の合理主義・能力主義が導入され始めた。アメリカ的な精神のバックボーンがないままこれらが推し進められたことにより、日本的な家族主義、終身雇用制、年功序列、正規雇用などの悪い面ばかりが強調され、急進的に排除されることとなった。その結果、年金や医療保険など、本来国が請け負うべきところを補完していた企業の社会保障が崩れ、以前は国民の90%がそうであると思っていた中流層が崩壊し格差社会が拡大し始めた。
 従来の日本的な経営形態では確かに能力のない人が上司になったり意思決定がボトムアップ式で時間がかかったり、無駄な面や合理的でない部分が多々ある。しかしながら、世の中は何も有能な人ばかりではない。大多数は平凡な人であり、従来の企業形態のままであればたとえ凡人であってもある程度安定をした生活が一生保障されていたわけで、民間の企業が本来は国がするべきセイフティ・ネットの役割を半分果たしていたのである。
 つまり国が今まで民間の企業に肩代わりさせていたセイフティ・ネットが破綻したわけで、国の税収の配分を早急かつ大胆に見直し、本来国が負担すべき社会保障費をしっかり確保すべき時期に来ていると思う。
 
 いつから日本人の心はこんなにも荒んでしまったのだろうか。
 日本人には古来「寛容」の精神が強い。日本古来の神道自体「八百万(やおよろず)の神々」というように多神教を容認する傾向が強く、聖書やコーランのような定められた経典も持たない。聖書やコーランに比べれば神道の祝詞などを聞くとよい意味でも悪い意味でもなんていい加減なものなのかと思ってしまう。仏教やキリスト教が初めて日本に入ってきた時も、当初政治的要素が絡んで若干の混乱こそ生じてはいるが、基本的に宗教自体は民衆の間にすぐに受け入れられている。キリスト教やイスラム教など、他国の宗教は唯一絶対神で非常に排他的であり、しばしば大きな戦争にまで発展しているのとは対照的である。
 第2次大戦後、アメリカは自分の国の価値観を日本に持ち込む占領政策を行った。日本人はその寛容さゆえそれらを素直に受け入れて発展した。イラク戦争で同じことをしようとしたアメリカはイスラム文化と日本人の民族性の違いを見誤って今非常に苦しんでいる。戦後のアメリカ的価値観の導入は文化的にも経済的にも日本にとって決して不幸なことではなく、むしろ多くの繁栄をもたらしたといえ全く否定するものではない。しかしながら、同時にアメリカの病んだ部分もじわじわと日本人の中に侵入し、日本人の精神性を破壊しつつあるのが現状ではないか。
 この傾向が最も顕著になったのが1990年代のバブル期とその崩壊後の社会である。作家馳星周氏は近著「ブルー・ローズ」の中で「バブル経済以降、ありとあらゆる悪徳がこの国に降り注いだ」「金は万能だという錯覚が人々の脳髄を冒し、モラルは地に堕ち」などと強烈な表現を用い、衝動的で無意味な暴力を通してモラル・ハザードの極致を描いている。この風潮は「金さえあれば何でもできる」と言ったホリエモンに至る現在まで続いている。
 小泉内閣が推し進めてきた政策の方向がこの傾向に拍車をかけ、ここにきてやっと、以前に日本人が持っていた良き精神性、例えば礼儀正しさ、道徳心、義の心、思いやりの心、優しさ、奥ゆかしさ、家族的な面、よい意味での曖昧さなどといったものの破壊が進んでいるということに多くの人々が気づき始めた。数学者藤原正彦氏は著書「国家の品格」の中で、惻隠の情に代表される武士道精神を失いつつある日本人に警鐘を鳴らしており、この本がベストセラーになったのも今の日本を憂い藤原氏の主張に賛同し共感している人々がいかに多いかを示すものであろう。

 先日行われたアメリカの中間選挙でブッシュ共和党が大敗した。イラク戦争の失敗が主因とされているが、真の原因はアウトソーシング(仕事の外部委託)が進んでアメリカ国内の中流層が失業していびつな格差社会に変容したためという分析もある。越智道雄明治大教授は「グローバリズムによってアメリカの資本主義は、富の大半を上位5%の富裕層に集中させ、アメリカン・デモクラシーの中核を担った中流層を下層化してはばからない“非愛国的な資本主義”に変質した」と表現している。つまり、多くの中間層が陥没してブッシュ共和党にソッポを向いたためだというのである。
 日本はまるでアメリカの負の部分を後追いしているようであり、ブッシュ・アメリカ政府の言いなりになって越智教授のいう所の「非愛国的な資本主義」を“輸入”し続けた小泉内閣の政策がこのまま継続されるならば、このいびつな資本主義によって今日本で起こっている格差社会はますます拡大していくであろう。経済的な貧困と精神の荒廃とは決して無縁のものでない。生活苦は人々の心をも貧しくさせる。人々の心が荒めば、犯罪が多発し、治安が悪くなる。このことは決して下流層だけの問題でなく、必ずや「一部の富裕層」にも跳ね返り、もはや日本に住むすべての人々が安心して暮らせなくなっていくであろう。
 このようなモラル・ハザードは今、教育のみならず医療も含め、政治・経済・行政・地方自治など日本のあらゆる分野で噴出してきており、この状況を何とかしなくてはと危機感を募らせている心ある人々がようやく立ち上がりつつあるように見える。今こそこういう人々がどんどん増えていくことを期待している。このことが壊れつつある日本を立て直す原動力になるであろうと信じたい。

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