医療法人さほり眼科、大阪府東大阪市の眼科、コンタクトレンズ指導・取扱
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院長のひとりごと(2008年)

  医療崩壊の現状を見て思うこと

院長のひとりごと(2008年4月1日)

 ここに来て、テレビや新聞にも医療関係のニュースが多くなり、ようやく日本の医療の危機がマスコミで報じられ始めた。少し前までは、救急病院の受入拒否や医療事故があると、一方的に医療機関を責める論調が多かったが、地方病院での医師不足や診療科閉鎖、救急医療の崩壊に至ってようやく医師の勤務実態にスポットが当てられ始めた。救急医療のいわゆる「たらいまわし」の問題も、医療機関が救急患者を「受け入れしたくない」のではなく、受け入れしたくとも手一杯で「受け入れられない」、すなわち「受入不能」であることが少しずつ理解されだした。今さらながらこれは病院側だけの問題ではないという認識が広がり始めているが、ここまで状況が悪くなってやっとかという感じである。
 しかし、マスコミやいわゆる識者の論調は大半が「医師不足だから医者の数を増やせ」とか「勤務医が辞めていくのは開業医に比べて仕事がハードで給料が安いから病院の診療報酬を上げてその分開業医の診療報酬を減らせ」などといった表面的で短絡的な見方でしかない。こうも急に医者が足らなくなったのは何故なのか、勤務医が何故辞め始めたのか、そのあたりの分析が全く見当らない。

 今すぐに医学部の定員を増やしたとしても、大学を卒業して国家試験を受けるまで6年、臨床研修医として専門を決めるまで2年、各科に分かれて一人前の医者になるまでトータルして最低でも10年以上かかる。医療崩壊はもう目前である。医者の数を増やせと言ってもそんなに悠長には待っていられない。勤務医の給料を上げるのは一手だが、今のような微々たる上げ方ではほとんど効果がないだろう。確かに勤務医の給料はその労働量に全く見合うものではないし、勤務医の給料を大幅に上げるべきだとは思うが、たとえそうしたとしても効果があがるかどうかは甚だ疑問である。なぜなら勤務医が辞めていくのは給料が少ないことが主たる理由でないからだ。

 今日の医療崩壊の原因はひとつではなく様々な要因が考えられるが、私が思うあまり表には出てこない最大の理由は、医師の「やる気のなさ」というか「モチベーションの低下」である。多くの医師の気持ちが“引いている”のだ。医者の立場でこれを言うのははばかれるので誰もあまり口にしないが、誤解を恐れずあえて言うとよってたかって医者を“叩きすぎた”のである。

 以前、新聞の投書欄で読んだものであるが、ある医師が「仕事がどんなにきつくても患者さんから一言ありがとうと言ってもらえれば頑張ることができる」と書いたら、別の読者から「病院もサービス業やろ。金もらってるんやから有難うと言われな頑張られへんなんて何甘えたことを言ってるんや」という旨の反論が返ってきた。「こっちは客で金を払っているんやから治療するんは当たり前やろ」といったところであろう。「病気」だけ診て「患者」を診ない医者が増えているなどと言われてきた反省に立ち、最近は医学部でも心のある全人的な医療教育に力が入れられている。しかし一方で、患者さんたちの中に一部だけと思いたいがこのような心無い考え方を持つ人たちが増えてきているのは非常に悲しいことである。知識や技術だけで病気は治らない。医師と患者双方に心のつながりが必要なのではないか。

 もちろん破廉恥行為や患者のことを全く考えない医療行為をして裁かれる医師たちは論外であるが、こんな医者は全体から見ればごくごく少数である。しかし普通に行われた医療行為に対してただ結果が悪かったということで訴えられたり、メディアに叩かれたりするケースが最近頻発しており、挙句の果ては刑事事件として逮捕されるケースまで出てきている。彼らは皆決して名医であるとはいえないが、ごく普通の一般的、標準的な医師であり特に出来が悪い医者とも思えない。

 中でも問題になるのは2006年の福島県立大野病院の産婦人科医師逮捕事件である。個人的な意見であるが、この事件が現在の医療崩壊の直接のきっかけになったのではないかとさえ思っている。この事件が日本で働く医者全体に与えた影響は、一般の人々が感じているよりもはるかに大きい。これは帝王切開を受けた女性が癒着胎盤という稀で術前予測困難な症例で不幸にも失血死し、医師が業務上過失致死に問われて逮捕された事件である。後から考えれば確かに万が一の可能性を考えて輸血の準備をしておくべきだったかもしれないし、癒着した胎盤を無理に剥がそうとした判断ミスがあったのかもしれない。しかし、この医師はたった一人でこの地域の産科医療を担っていたのである。もう一人なり、二人なりアシストする医師がいれば準備不足もカバーされていたかもしれないし、疲労の蓄積から来るミスも減らせたかも知れず、このような不幸な結果にはならなかった可能性が高い。

 身を削って一生懸命医療に身をささげた結果がこれである。民事訴訟を起こされたというレベルではなく、刑事事件として逮捕されてしまったのである。おそらく警察は居眠り運転による過失致死と同レベルで考え、その結果が引き起こす重大な社会的影響などには全く思いも及ばず、安易に逮捕したのであろう。過重労働や疲労による居眠り運転なら途中で休んだり運転者を交代してもらったり、いくらでも方法はあるであろうが、果たしてこの医師に手術や診療をやめて休みを取るという選択があったのであろうか。おまけに今日の医療崩壊という火に油を注いだともいえるこの事件の功績で、医師を逮捕した警官は県警から表彰までされたらしいが全く信じ難い。福島県警には逮捕から1年以上経っても医師を中心に全国からの抗議メールが絶えないという。検察にもメンツがあるのだろう、この医師は起訴され先日裁判で禁固10か月が求刑された。

 この事件の衝撃はまず同じ産婦人科の医師たちに直接伝わった。「明日はわが身だ」みんなそう思った。月の半分近くを当直にあたり(もちろん、当直明けは休みなどない)、患者さんのためという使命感に支えられ、くたくたになりながらギリギリの所で頑張っていた医師たちの中で何かが切れた。「どんなに頑張っても結果が悪ければ民事訴訟ばかりか刑事事件にまでされて逮捕されてしまう、我々を守ってくれるものは何もないのか」と。産科の医師は現場からどんどん去り始めた。少し前からハードな勤務に耐えかね辞めていく勤務医は「立ち去り型サボタージュ」などと非難めいた言われ方をしていたが、この過酷な医療環境の中、体だけでなく心も萎えてしまった医師たちを誰が批判できようか。

 討ち死にしてしまった同僚医師に穴を埋めなければならず、残った医師たちにはますます負担がかかり、一人また一人と勤務医が病院を去り、医療崩壊は負のスパイラルとなって加速度的に進んでいく。このような状況は産科だけでなく、小児科、外科、麻酔科など様々な科に及んでいる。なぜこのような事態に陥ったのか。大野病院事件は大きな衝撃であったが、根はもっと深いところにある。医療崩壊が起こっている現場は主に地方を中心とする国公立病院であり、ここに勤める勤務医の不足や過酷な勤務状況にばかりが問題になっているが、実は楽をしていると的外れな批判を受けている全国の開業医や中小民間病院の医師たちの意識変化がこの事態をもたらしているのではないかと思う。

 どういうことかというと、マスコミに煽られた医療不信、患者の権利意識の高まり、言いがかりに近いようなクレーマーや果てはモンスター・ペイシェントの出現など、医者の間には患者からの民事訴訟に対する恐怖心はかつてないほどに高まっている。私はしばらく前より地区医師会の医事紛争を担当しており会員の医師より様々なトラブルの相談を受けているが、中にはまさかこんな些細なことで思うようなことで、と驚くようなケースも少なくない。そして最終的にはやはり多寡を問わず金銭で決着する。医師側に説明不足やコミュニケーションのまずさがあることも多いが、患者に怒鳴られて思わず謝ったことからあげ足を取られる場合もあり、今学校の先生たちを追い詰めているモンスター・ペアレンツが思い浮かばれてならない。さらに追い打ちをかけるように、普通に診療していても結果次第では警察という公権力によって刑事事件にまでされてしまうのかという理不尽な事態に至っては少しでもリスクがある医療行為は避けたいと思うようになるのも当然である。日本全体にいわゆる「萎縮医療」が蔓延しつつあるのだ。
 最近は開業医や中小病院レベルで今までやっていた小手術や中心静脈栄養、造影剤を使う簡単な検査(ショックを起こすことがある)さえ、訴訟のリスクを考えて「ここでは出来ません」と言って自分の所で出来たとしてもやらずに少し大きな病院に依頼してしまう傾向が徐々にひどくなっているように思う。こうして開業医が引いてしまうと、その分たとえそれが少しずつであったとしてもそれらが集まって大きなしわ寄せとなり基幹病院の勤務医を圧迫することになる。こういった萎縮医療が医療崩壊を加速させていることを大いに指摘したい。私が一番言いたいのは、患者やマスコミが医者を叩けば叩くほど医者は出来るだけリスクを避けようとして萎縮医療になびき、その弊害は医療崩壊という形になって患者自身にすべてはね返ってきていることに国民が気づくべきだということである。ここに医療崩壊に至るまでの経過を分析し、図にしてみた。

1

医療事故・医事紛争・医療訴訟などのマスコミ報道の増加。

 

2

情報番組のコメンテーターなどマスコミからの医療機関へのバッシング。

 

3

国民・患者からの医療不信増大。

 

4

医療機関に対するクレーマーの増加、モンスター・ペイシェントの出現。

 

5

医事紛争・医療訴訟の増加  「1」に戻り、増幅していく。

 

6

医師側の患者不信増大。

7

警察の介入による医療事故の刑事事件化。

 

8

医師側の医事紛争・医療訴訟・警察の介入と刑事事件化への不安・恐怖。

9

政府の医療費抑制政策による医療機関の経営状態の悪化。

 

10

医師の医療に対する使命感喪失、モチベーションの低下、虚無感。

 

11

診療所や中小病院を中心に訴訟リスクを避ける萎縮医療の蔓延。

 

12

1次→2次→3次とより高度な医療機関へのしわ寄せによる患者の急増。

13

医療機関の人員削減、救急・小児科など不採算部門の切捨て。

14

新臨床研修医制度開始による大学医局制度の崩壊と地方病院の医師不足。

 

15

2次・3次病院の勤務医の過重労働増大と辞職増加の負のスパイラル。

 

16

医療崩壊:救急医療体制の破綻と地方病院診療科の閉鎖の拡大。
 元来医療そのものが非常にリスクの高い行為であることを一部の人々は忘れてしまっている。医療は少しでも安全で患者さんの負担の少ないものを追い続けてきた。その努力の結果、日本の平均寿命の高さや乳児死亡率の低さは世界でトップクラスである。しかし、苦労し工夫し努力して安全で楽になればなるほどうまくいかなかった時には「何でうまくいかなかったんや。医療ミスや」と非難、批判の攻撃にさらされる。お産ひとつをとっても昔は母子ともに命を賭けた大仕事であっが、今はうまく行って当たり前という風潮があまりにも強すぎるため医者がいくら頑張っても結果が悪ければ訴訟を起こされてしまい、産科は他の診療科に比べてダントツで医療訴訟が多い。自身の身を守るために産婦人科を標榜する開業医はどんどん産科をやめて婦人科のみの診療に切り替えていっているのも当然といえば当然の流れである。

 幸い眼科は命に関わる疾患が極めて少ないため訴訟は比較的少ない。うちの診療所に来る患者さんはみんなおとなしい方ばかりのようで、開業して15年近くになるが目立ったトラブルはほとんどない。中には「目に入った異物を取ってもらいに来たのに何で視力を測るんや」とか「めばちこできてるのに検査なんかいらん」などと怒って帰るような人もたまにいたが、数年に一度ある程度である。ただ思うに、白内障の手術などは最近技術や方法が飛躍的に進歩したため、白内障の手術などは5分くらいで簡単に出来るんやという情報があまりにもテレビなどで喧伝されすぎているのには困ったものである。水晶体の核が硬かったり、瞳の開きが悪い場合など時間や労力のかかるケースはいくらでもあるのに、簡単なものばかりをセンセーショナルに伝えすぎると患者さんとのトラブルの元になりかねない。

 救急病院のたらい回しや医療ミス、医療訴訟などの報道が続くと、医師や医療機関ばかりをバッシングする風潮が極めて強くなる。中には検診を全く受けないまま救急で運ばれ受け入れ病院がなかなか見つからず死産した妊婦や傍若無人な振る舞いや入院費を払わずして病院側を困らせ強制退院させるも家族に引取りを拒否され公園に置き去りにされた患者のケースなど、患者側や行政のあり方により大きな問題があるものまでも一方的に医療側がマスメディアに責められている。マスコミは立法・司法・行政に続く「第4の権力」といわれて久しいが、マスコミ関係者は自分たちが発するメッセージの影響がいかに大きくて責任のあるものかを自覚して行動するように猛省を求めたい。中でもワイドショーに出ている一部のコメンテーターの発言にはひどいものが多い。内情もよく吟味せず、上辺だけでいかにも自分は患者という弱者の味方であるという類のポピュリズムに走った内容のものが少なくない。

 誰も患者を困らせてやろうとしてミスをする医師などいない。全ての医療ミスについて目をつぶれなどという気は毛頭ないし、ミスを繰り返すリピーター医師の存在は非常に問題ではある。しかし近年、医療訴訟は年間1,000件近くにも上り、10年前に比べて倍増している。昔なら泣き寝入りを強いられるようなケースが表に出るようになったこともあるだろうが、それにしてもまさか医師の質が急に落ちて医療ミスをする医師が2倍にも増えたわけではないだろう。あまり何でもかんでも訴えるような風潮は厳に慎むべきである。こういう風潮は決して国民のプラスにはならない。そのツケは必ず自分たちの身の上に返ってくることを肝に銘ずべきである。

 以前の日本には、医療の世界だけでなく、学校や商売の世界などあらゆる場面で日本人はもっと節度があり慎み深く、また人のささやかな過ちに対してももっと寛容の心があったように思う。自己の非を省みず権利ばかりを主張し、他人を責めてわがままを通したり、お金を騙し取ったりする者が増殖しているように思えてならない。いつしか拝金主義が蔓延し、ちょっと油断をすれば振り込め詐欺や暴力事件に巻き込まれかねず、常に緊張し用心しなければならないような世の中になってしまい、感謝・余裕・寛容・思いやり・実直・優しさ・真面目・勤勉など、かつては諸外国が驚嘆・尊敬したような日本人の美徳は一体どこに行ってしまったのだろう…。ある意味、患者が医師を守り、我慢して医師を育てるという意識がなければ日本の医療はますます悪い状態になっていくであろう。

 では患者はどうやって自分の身を守れば良いのだろう。日本の患者の最大の武器は、保険証1枚あれば全国のどの病院でもどんな医師にでも非常に安価で自由に診てもらえることである(和製英語だが“フリー・アクセス”と呼ばれている)。患者は自分の意思で自由にかかる医師を選べるのだ。日本に住む者にとってこんなことは皆当たり前のように思っているが、諸外国を見ると決してそうとも限らない。たとえばアメリカの医療はレベルが高いと思っている人も多いがそれは金持ちに限られていて、日本のように自由に医師や病院を選べるような民間保険に加入しようとすれば驚くことに1ヶ月で200万円以上の保険料が必要なのである。アメリカの医療の現状はマイケル・ムーア監督の「シッコ」というドキュメンタリー映画で強烈に描かれている。

 医師はどんな医者でも一応医学部で膨大な量の勉強をこなし、難易度の高い国家試験を曲がりなりにもパスし、厳しい研修医生活を送ってきているのでどんなにダメといわれる医者でも最低限の医療の知識と技術はあるはずである。当たり前のことだが、医師の全てが均一に同じレベルの医者ではない。また、年齢も性別も性格も経験も専門も皆一人ひとり異なる。若い医師は体力や情熱にあふれているが、経験は浅く技術的には未熟かもしれない。逆に老齢の医師は経験は豊富で慎重だが、知識や技術は若干古いものかもしれない。生殖器に関する疾患は同性の医師の方がかかりやすいかもしれない。内科や眼科などの同じ専門科の医者の中でもその専門分野は呼吸器や消化器が専門とか小児眼科や緑内障が専門などさらに細分化されていることが多い。優しいけれどやや軽い医者、恐いけれどしっかりした医者、のんびりした医者、せっかちな医者など性格も千差万別である。この中から自分の病気、状態、性格に合った医者を選んでいくわけであるから大変ではあるが、逆に言えばそれだけ自由に自分にあった医師を選べるのである。

 そこでこのお得な国民皆保険制度を大いに利用しない手はない。そのためには普段からあらゆる手段で病院や医師の情報を集め、勉強しておくべきである。最近はインターネットでいくらでも病気や病院の情報は集められるし、新聞などでも医療に関する特集記事もよく目にする。こういった情報や患者さんたちの口コミとともに近所の開業医から情報を得ることも良い方法である。そのためには日頃から自分の病気に応じた、信頼の出来るかかりつけ医を見つけておくのが一番良い。他科のことでもあの先生に診てもらったらいいよとアドバイスをくれたりする。我々医師の家族が病気をしたときも同じである。自分の専門外であればなおの事、専門分野でもやはり友人や知り合いの医師に相談して医師を選ぶ。

 患者さんは全てを医者にお任せして後はなにも考えず結果だけを待つという姿勢は捨てるべきである。患者には自分で医師を選べる自由もあるが、逆に選んだ自分にも責任の一端があると自覚すべきである。たとえ結果に不満があったとしても最終的にその医師と治療を選んだのは患者自身である。詐欺師やキャッチセールスのように医者の方からこいつをだまして儲けようとか人体実験してやろうとか思って患者に仕掛けていくことはありえない。患者が自らの意思でその医師を選んでいるわけだから、その医師の説明や態度が信頼できなければ医師を変えることはいくらでも出来る。

 しかし、最近の風潮から見ると、納得しようがしまいが最終的に決断したのは患者自身、あるいはその家族であることが全く忘れ去られている場合が多いように思う。もし患者が医師を選べないのなら仕方ない面はある。そういうことがあればそれはそういう制度自に問題があると思うが、よほど常識的にみてひどいことでなければ何でもかんでも責任を医師に押し付けるのはおかしい。例え話で申し訳ないが、雰囲気も良いしおいしそうだなと思ってあるレストランに入ったとして出てきた料理が非常にまずかったとしよう。毒や異物が入っていたり、食中毒を起こしたりすればお客に責任はないが、料理が単にまずかったからといって、そのレストランに責任を取れ、慰謝料を払えとは言い難いのではないか。自分がそこを選んだのだから…。

 このようなお寒い状況の中で少し朗報が出てきた。先日の新聞報道によると航空機などの事故調査委員会の医療版ともいえる医療安全調査委員会の具体案がようやくまとまったらしい。遅いくらいであるが、この案は積極的に評価したい。これは医療事故や異状死の原因究明と再発防止を目的とし、医療機関側と患者・家族側の間に立つ中立性と専門性を持った第三者機関で、警察や裁判に持ち込まれる前に医療機関・患者双方からの届出によって動くというものである。メンバーは病理医、法医、臨床医など専門知識を持った医師とともに看護師や法律家、患者の立場に立つ有識者などから構成される。この委員会がスムーズに機能し信頼を得られれば萎縮医療緩和の方向に働くであろうし、医師と患者双方にとって非常にプラスとなり、医療崩壊を防ぐ一助になると考えられる。

 いずれにせよ、患者側だけでなく医師側にも患者に対する大きな不信があることが今の医療崩壊につながっているのだと思う。日本の医療を救うには、医師側・患者側・行政の三者がそれぞれの立場で勉強し、努力し、時には忍耐を持ってお互いの信頼関係を高めていく必要があるのではないだろうか。

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  新型インフルエンザのパンデミック

 強毒性で致死率の非常に高い鳥インフルエンザが変異してヒトへの感染、さらにインドネシア辺りではヒトからヒトへの感染したケースの報告が徐々に多くなってきている。こういった感染症が限られた地域から飛び出して広範囲に流行し始め、世界的に広がることをパンデミックという。中でもインフルエンザウイルスは変異しやすく、感染が広がるごとに鳥から鳥へ、鳥からヒトへ、そしてヒトからヒトへ、さらに感染力の高いものへと次々変異していくことがほとんど確実視されている。この非常に恐ろしい鳥インフルエンザウイルスが変異してパンデミック(世界的大流行)が起こることは既に時間の問題であると言われている。
院長のひとりごと(2008年7月1日)
 数か月前、NHKで新型インフルエンザに関する番組をやっていたが、インドネシアの感染例では母親がまず鳥インフルエンザを発症し、次いで看病していた子供たちや家族に2次感染し、さらに離れたところからやってきた叔父にまで感染が広まった。確か一人を除いた全員4~5人が2~3日のうちに死亡している。主な死因は肺炎で致死率は60%以上といわれている。当初、この叔父の行方がわからず3次感染が心配されたが、幸運にも叔父以外にはたまたま感染者が出ず事なきを得ず、この時は封じ込めに成功している。

 しかし、感染者が運ばれた病院の看護師がひとりインフルエンザ様症状で欠勤し、3次感染が疑われたが、この看護師は鳥インフルエンザではなく従来型のインフルエンザ感染が確認された。しかし、この看護師が従来型と同時にこの強毒性の鳥インフルエンザに感染した場合、感染力の非常に高い新型インフルエンザに変異していた可能性が非常に高く、パンデミックの一歩手前であったといわれている。もしこのとき新型インフルエンザが誕生していたらと思うとゾッとするが、このようなことはもういつ起こっても全く不思議ではない。

 日本政府も新型インフルエンザのパンデミックに備えて現在、とりあえず医療従事者や治安関係者向けのプレパンデミックワクチン1000万人分と全国で抗ウイルス薬タミフル2500万人分の備蓄をしている。日本に現在あるタミフルの量は飛び抜けて多く世界全体の半分以上を占めているらしい。しかし、ワクチンもプレパンデミックワクチンは現在の鳥インフルエンザウイルスに対するものであり、新型インフルエンザが実際に発生しないと本当に効果のあるワクチンの製造にとりかかることはできない。また、いくらタミフルを備蓄したところでよほどうまくやらないと十分な量を全国隅々まで配分することはなかなか難しいであろう。また、世界中でパンデミックが起こった場合、金に物を言わせて日本だけが高価なタミフルを大量に取り込んでいるのは汚い、被害の多い国に薬を回せ、といった国際的な非難を浴びるかもしれない。また、タミフルに耐性のあるインフルエンザもぼちぼち出てきている現在、新型インフルエンザに対してタミフルにどれだけの効果があるのかも疑問になってくる。

 パンデミック対策として、タミフルの備蓄やプレパンデミックワクチンの製造はもちろん必要だとは思うが、もっと簡単で有効な手段がある。それはマスクの着用である。毎年、インフルエンザで多数の高齢者が死亡することに悩まされていた病院や老健施設で施設内でのマスク着用を義務づけたところ、インフルエンザ罹患者が激減したという。もし、パンデミックの危機が迫ったなら、直ちに少なくとも外出時や公共の建物内ではマスクの着用を義務づければよい。マスクはどんなマスクでもしないよりはましだが、透過性の低いマスクでないとあまり効果は期待できない。最近は抗ウイルス作用のあるようなマスクも開発されているので、そういったできるだけ高性能なマスクを着けることが望ましい。抗ウイルスマスクは医家向けでは1枚約350円ぐらいで販売されており、さして高価ではない。1カプセル約360円もし、医師の処方を必要とするタミフルを大量に備蓄するよりも、高性能のマスクをたくさん備蓄するほうが、よほど安価であり、薬のような使用期限もなくて扱いやすく保管もしやすいし、医師でなくとも誰でも街頭などで配布でき、効果も高い方法だと思う。マスクは非感染者の感染予防と感染者の他者への飛沫感染を予防するという二重の効果を持つ極めて簡単で優れた手段である。

 もちろん運悪くインフルエンザにかかってしまった人に対してはタミフルなど抗ウイルス薬の処方や点滴などの医療が必要であるし、また、効果の高いワクチンのできるだけ短期間での製造と接種は必要だとは思うがこれにはかなり時間を要してしまう。パンデミックの際にはとにかく時間との勝負である。時間がたてばたつほど感染者は広がり増えていく。そんな高度な医療的なことよりもまず、手洗いをする、うがいをする、なるべく人混みには行かない、なるべく外出は避ける、常時マスクをする(できればできるだけ高性能なもの)、など誰でも簡単にできる当たり前ことを徹底的に行うことだけでもかなり効果があると思う。行政はパンデミックの危険性とその際の対処についてもっと普段から危機感を持って国民を啓発・啓蒙すべきあり、こういう時こそ医師会にも協力を要請すべきかと思うのだがいかがだろうか。

 2002年冬のSARS(重症急性呼吸器症候群)騒動の時を思い出して欲しい。このグローバルな時代である。中国広東省の片田舎で発生したSARSウイルス感染はあっという間に香港、台湾、カナダ、シンガポールなどを始め世界各地に飛び火した。当時高校生の我が長女は夏休みにカナダでの短期ホームステイを楽しみにしていたが、このSARS騒動のせいで中止になってしまったことはまだ記憶に新しい。新型インフルエンザも初期の封じ込めに失敗すれば、瞬く間に全世界に広まってしまうであろう。

 もし、パンデミックの危険が迫ったなら、政府行政はタイミングを逸することなく非常事態宣言を出して日本国内ではマスクの着用を強制するぐらいのことはしても良いと思うし、またそうしないと日本国内でのパンデミックを未然に防ぐことはできないであろう。行政はSARSでよい経験をしているはずである。新型インフルエンザのパンデミックの時こそ真の危機管理能力が問われるであろうが、失敗は許されないということをどれほどの官僚や政治家が意識しているのだろうか。

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  医師不足「2つの偏在」について考える ~PART1:地方の医師不足~

 平成201016日、読売新聞に医療改革についての提言が掲載された。若手医師の計画配置案や診療報酬の見直し、患者側の問題などについては疑問点や異論もある。しかし、社会保障費抑制策からの転換や女性医師支援など賛成できる点も非常に多い。

 とにかく医療・介護・年金といった社会保障が小泉・竹中改革の中でおろそかにされ、医療崩壊が加速している現在、大メディアが危機感を持って紙面の何ページも割き、あるいは社をあげてキャンペーンを張りテレビでも繰り返し医療問題を取り上げ、このような提言を行ったこと自体、非常に評価できる。読売新聞でもトップの項目に持ってきているが、地方の医師不足と産科・小児科・外科における医師不足、言い換えれば都市と地方、診療科別の2つの医師偏在が喫緊の課題である。今回はまず、地方の医師不足について考えてみたい。

医師不足「2つの偏在」について考える ~PART1:地方の医師不足~

 

   医師数は本当に足らないのか?

 厚生労働省のデータによれば、最近の医師国家試験合格者は毎年7,6007,700人程度であるが、医師数は死亡する医師等を除けば実質毎年3,5004,000人程度増加している。医師数を人口10万人当たりでみると昭和30年での105.9人が平成18年には217.5人と約50年でほぼ倍増している。データでみると医師数は年々着実に増えており、もし本当に医師の絶対数が足らないとすればそれは医師数の増加が高齢者の増加による患者数の増加に追いついていないためと考えられる。

 しかし、医師不足は特に地方の病院ほど顕著になってきており、医師不足というより、都市部への医師の偏在といった方が妥当であろう。ここにきて桝添厚労相は医学部定員の増加を打ち出してきており、医師の絶対数が増えれば多少は地方へと回るのでやらないよりはましだが即効性はなく、果たしてどれほどの効果があるのかは甚だ疑問である。

   大学医局制度の崩壊

 なぜここにきて地方の医師不足が生じたのだろうか。一言でいえば大学の医局制度の崩壊が原因である。医局制度とは大学教授を頂点にしたピラミッド型の人事体系で、いわゆる「白い巨塔」の世界である。

 通常医学部の学生は56年次でポリクリと呼ばれる臨床研修を行う。これは56人の小グループに分かれ、すべての科を2週間程度でローテーションしながら実習を行う。ここで自分の行きたい科を見定め、卒業間近になると各科の入局説明会などを聞いて、医師国家試験に通ればほとんどの医師は出身大学の希望科の医局に入って研修医となるというパターンが長い間一般的であった。

 医学部の大学教授はジッツと呼ばれる関連病院から医師の派遣を依頼されるので、医局内の人事権を一手に握っており、これが権力の源であった。関連病院は科によってまちまちで、同じ病院でも科によって系列大学が違うことは全然珍しいことではなく、関連病院の規模や数はそのまま教授の力を表すものであった。研修医は1年ほど大学病院で研修した後は教授の命令に従い、地方であろうが都会であろうが命じられた病院に派遣されるのが通例であり、23年は1年ごとぐらいに勤務病院を異動させることよってバランスを取り、医局内の不満が出ないようにしていくのが教授の大きな仕事のひとつであった。

 独裁者のごとく教授に権力が集中し、逆らうことのできない医局制度の弊害は以前より指摘されていた。しかし、教授は地方の病院の依頼に応じて強制的に医師を派遣する力を持っていたわけで、以前から元々地方の医師は十分足りていたわけではなく、教授の絶対的人事権によって地方病院はなんとかやっていけていたという面は否めず、医局制度のすべてを否定することはおかしい。むしろ、トップの教授が人格者であればその医局には人が集まり、うまく運営されているところが多い。

 そもそも、医師免許取得者は何を目指すのか。もちろん人によって異なるが、基礎研究や監察医などの社会医学を志す一部の人々を除けば大半は臨床医を目指す。大学の医局には何があるのか。医学部の使命は診療だけではない。臨床・研究・医学教育の3つの役目がある(大学に残る者にはこの3つのバランスが必要であるが、論文をたくさん書いて教授になったが手術は下手で学生教育にはあまり関心がないなど、しばしば偏りがあって問題になる)。ほとんどの研修医は腕の良い臨床医を目指しており、研究や医学教育に積極的な者はほんの一握りであるから、そんな余計なことはしたくない、もっとバリバリ臨床だけをやりたいと思っている研修医も多い。

   新医師臨床研修制度

 ところが、平成16年度より新医師臨床研修制度がスタートして事態は一変した。この制度は研修医の低賃金過重労働問題や何科に行っても最低限の基本的な医療ができるようにと医師免許取得後2年間、内科・外科・産科・小児科・精神科・地域医療等の研修が義務化されたものであり、半面、研修医が自ら研修先病院を選べるようになり、待遇面でも保護されるようになった。

 この新医師臨床研修制度(スーパーローテート)のスタートにより、まず2年間大学医局の下働きを一手に担っていた研修医が全く供給されなくなり人手不足に陥った大学は、地方病院に派遣していた医師を引き上げざるを得なくなった。この傾向は都市部よりも地方の大学病院でより強い。これだけが地方の医師不足の原因であれば2年後からは医局に研修を終えた医師が戻ってくるので元に戻るはずである。ところがそうはならなかった。

 それは研修医自らが自由に研修先病院を選べるようになったことが大きく関わっている。研修医の多くが、大学の医局に在籍しなくても自分の腕を磨く道があることを知ってしまったのである。臨床研修医在籍状況の推移をみると、この制度が始まる前の平成16年には大学病院と大学病院以外の臨床研修病院に比率が約31であったのが、翌平成17年には約119となり、平成18年以降は約911に逆転したまま同比率で続いている。大学以外の研修医は約2倍に増え、大学病院の臨床研修医は5年前(5923)に比べてほぼ半減(3423)しているのである。私が医者になりたての約20年前には医師免許取得者はほとんど出身大学病院で研修を行っていた。

 都市部の一部大学を除いたほとんどの大学のどの診療科の医局も入局者は以前のほぼ半数以下になってしまった。以前と違って今の大学教授は大変である。国公立大学病院はすべて独立行政法人となって独立採算制となったため教授は自分の科の経営努力は求められるわ、医局員の研究費調達には追われるわ、医療事故でも起ころうものなら監督責任を追及され、医局員も昔のように皆絶対服従ということはなく言うことをきかない者もおり、今度は入局者募集のPRにまで勤めて勧誘しなければならない。昔と雲泥の差で本当に気の毒なくらいである。

 大学の医局に入って行きたくもない病院に回されるのは嫌だ、大学の医局は診療以外の雑務が多過ぎる、学位なんて魅力がない、専門医を取れればよい、と思っている研修医も結構いるわけで、彼らにとっては研究や教育の比率の極めて低い大学以外の研修病院の方がよほど魅力的なのである。ただ、そこに行くには今までは教授の意に沿うしか道はないと思っていただけである。ところが、この制度が始まると、「何や。大学医局に入らんでも、好きな病院に行けるんや」となったわけで、大学以外の病院も今までは教授の口利きがなかったら医師を確保できなかったのが、自由に研修医と接触して優秀な人材を確保できるようになり、大学教授の仲介なしで両者の交渉が成り立つようになってしまった。もちろん、研修後の進路も自由になり、医局員の自由度も高まったため大学教授の人事権はどんどん縮小している。

   地方に定着しない地方大医学部出身者

 それに世の不況もあって年々医学部受験はヒートアップしており、国公立・私立を問わず全国どの医学部も最難関で簡単には合格できない。数が圧倒的に多い都会の受験生も都市部の医学部に行きたいが贅沢は言ってられない、とにかく少しでも難易度が低く、入りやすい医学部ならと地方大を狙う。元々こういう人々はその大学のある地方出身ではないため、その多くは大学卒業後のいずれの時期には自身の出身地や都市部に戻ることを前提にしている。

  地方大学も地元枠を設けたり卒後地元に残ることを条件に奨学金を出すなど考えているがこの程度では劇的な効果は期待できない。これまでは都市部の大学の医局は自大学の入局希望者が多く、なかなか他大学からは移りにくかった。しかし、この制度が始まると都市部の大学でも大学病院以外の大きな病院での研修希望者が増え、地方大から大学都市部の大学病院医局にもずいぶん入りやすくなり、都市部に戻りやすくなったため、余計に医師の偏在化が進んだのである。

 要するにこの新医師臨床研修制度は、研修医の中に今まであった大学医局の壁を壊してしまったわけで、多くの研修医が、卒業後しばらくは教授の意のままに動き、学会の準備や医局の下働きもし、僻地病院にも出向し、多少不満があってもみんな通る道だからと我慢しながらやっていくのが当たり前だと思っていた心理的・現実的な束縛を解き放ってしまったといえる。自分自身が研修医の立場になって考えてみたらよい。良い医師になるためにはたくさんの症例に当たり、優れた指導医の下でできるだけ多くのことを経験することが必要である。症例の質と量の豊富な病院で勉強したいと思うのは誰も同じである。ところが地方の病院は過疎化して老人ばかりで症例の質も量も貧弱で、指導医も少なく、医師としての実力をつけるには全く物足らない環境なのである。過疎地の人々に喜んでもらえるという使命感に燃える医師を教育で増やすとか、給与を高くするという方法だけでは自主的に地方病院に勤務させる若手医師を増やすことはできないであろう。

   都市への医師偏在の解決策を探る

  このように自由化すれば、僻地の病院には誰も行きたがらないのは至極当たり前のことで、多少有利な条件をつけたところで臨床の実力をつけたいというのが最優先の若い医師たちにとってそれに勝るものがあるとは思えない。桝添厚生労働大臣も僻地医療を希望すれば優先的に留学させてあげましょうとか、手当をいっぱいつけましょうとか、インセンティブを付ける方法、すなわちニンジンをぶら下げる方法が良いのではと言っていたが、それだけでは状況が変わるとは思えない。従ってこのような状況を解決するためには僻地医療を義務化するしかないと考える。元々、大学教授によって半強制的に出向させられていた状況に近いものに戻すだけのことであり、義務化にはさして問題があるとは思えない。ただ僻地医療の義務化の仕方については私なりに考えたひとつの案がある。

 1970年代、各都道府県に少なくともひとつは医大を作って地域医療の核にしようということで新設医大ラッシュがあった。その後30年以上経過し、新設医大の多くは地域の総合大学へと移管されている。しかし、現状では地方大学の医学部はその地域の医師の供給源たりえていない。なぜなら、地方大医学部の卒業生が自身の出身大学に残らないからである。せっかく1都道府県に最低ひとつは医大があるのである。少なくとも6年間、その地域の大学で世話になり、勉強させてもらって一人前の医師として育ててもらったのである。卒業後、出身大学のある都道府県の僻地医療に2年間ほど従事することを義務化してもよいのではないか。だた、そのやり方については詳細な検討が必要である。

  医学部の学費について

 ヒントは自治医大や産業医大方式である。自治医大は昭和47年に僻地医療に従事する医師を養成するために47都道府県が設立した大学で、入学金100万円、授業料・実習費・施設費で年額360万円、6年で計2260万円の修学資金を貸与し、卒後に出身都道府県の指定する僻地公立病院で9年間勤務すれば修学資金の返還が免除される。産業医大も昭和52年に産業医の育成のために作られた大学で、6年間で2869万円の学費のうち、実質負担額は9496800円で、19193200円は貸与され、卒後9年間産業医としての職務を果たせば免除されるシステムになっている。いずれも卒後の義務を果たさなければ多額の学費を返還しなければならない。

 通常、医学生を教育して一人前の医師に育てあげるのに一人当たり1億円近いの経費がかかると聞いたことがある。そこまでいくかどうかは定かではないが、私立医大の6年間の学費が入学金・授業料などを合わせて大体40005000万円前後、自治医大や産業医大でも20003000万円かかる所を見るとかなり高額の経費がかかることには違いない。

 さて、翻って国公立大学の医学部の学費を見てみると、2008年度は年間817800円なので現在6年間で500万円弱と私立医大の約10分の1、自治医大の約5分の1である。 この学費は工学部であれ、文学部であれ一律同額である。つまり国公立大学の医学生は医師の資格を得るまでに相当額の税金が投入され、私立医大や自治医大と比較すると約89割の学費がすでに免除されているという計算になる。医師は公共財であるから国や都道府県が税金を使って医師を育てていくのは全然おかしい話ではない。しかし、自分たちはこれだけ多額の税金で育ててもらったとのだいう意識をどれほどの国公立大出身の医師が持っているであろうか。彼らはもっとそのことを社会に還元する義務があるのではないだろうか。国公立大出身の医師は、特に出身大学のある都道府県の僻地医療の担い手となり、国や都道府県・市町村の医療を手助けをすることは当然の責務ではないかと思う。

 新臨床研修制度が医師偏在、地方の医師不足の一因になったことは確かだが、この制度の趣旨自体は間違いではないと思う。この制度で医師免許を持つものすべてがある程度の基本的な医療を身につけることができる。我々の時代には、いったん眼科や皮膚科などのマイナーな専門科を選べば、救急処置や全身管理などのトレーニングを受けることはなく、幸か不幸か死亡診断書の1枚も書いたことのない医師がほとんどであり、そういう全科的な研修はしたくてもできないのが普通であった。

   提案:「国公立大学医学部出身者にはその地域の僻地医療を義務化する」

 自由度の高い臨床研修医制度はそのまま残してもよいと思う。しかし、その分、僻地医療の義務化という制約を課してもよいのではないか。研修終了後も臨床研究したり、留学したり、個々でいろいろな事情があるであろう。だから研修期間終了後の10年くらいまでの間の好きな時期にトータルで2年間、卒業大学のある都道府県のリストアップした僻地病院の中から行きたい所を選択して勤務することを義務化する。もし、これを成就できないときには自治医大や産業医大にならい、その期間分、本来の学費の免除分(2年間丸々なら約1000万円)を国や都道府県に返還する義務を負わせる。返還を拒否すれば保険医の資格を停止する。自由診療での開業を防ぐために、僻地医療の義務を果たさず学費返還にも応じない者には診療所の開設を認めない。逆に私立医大出身者で指定された病院での僻地医療を希望する者には2年分を上限に学費を本人に返還する。義務違反のペナルティで返還されたお金は、私立医大出身者の学費返還分や僻地医療勤務医のインセンティブに使えばよい。

 さて、どの年代で線引きしてこの義務化を実行するかが問題である。筋から言えばこういう制度になることがわかった上で受験した国公立大医学部卒業生から始めるのが最も望ましいが、それでは即効性がない。現実的には平成16年度以降の新医師臨床研修制度の恩恵を受けた研修医から始めるのが最も良いであろう。もちろん、すでに大学医局から僻地に派遣されている医師はその分をカウントすればよい。

 以上は私案なので、もちろん義務化の期間や返還金の額などは詰めればよいし、出 身大学のある都道府県の僻地勤務が最も望ましいと思うが、事情によってどうしても無理なら他の都道府県の僻地に振り替えるなど、運用はフレキシブルにすればよい。とにかく、この問題に関しては早急に手を打つ必要があると思うが、皆さんはどう思いますか。(つづく)

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