今こそ全国民が理解すべき日本経済のパラダイムシフト

コロナ禍の今、これまでの日本の経済政策や財務省主導の財政政策の誤りが浮き彫りになっています。自民党政府与党は昨年末に財政政策検討本部を設置し、内部では現在、過度の財政支出による国の財政破綻を信じる従来からの緊縮財政派と、政策転換して国の積極的な財政支出を求める積極財政派とがせめぎあっています。議論の中で、これまで経済破綻論者であった著名な経済学者も相次いで、日本における財政破綻はないと認めるようにまでなり、与党も野党も政治家や経済学者のほとんどが緊縮財政派であった1年前には想像できないほどの政治経済のパラダイムシフトが日本でも起こりつつあります。

「経済」という言葉は、中国・隋の時代の王通「文中子」礼楽篇の中の「皆有経済道、謂経世済民」にある「経世済民」に由来しており、「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う」を意味します。ところがこの四半世紀、日本では「世は経(おさ)まらず、民の苦しみは済(すく)われず」、日本の「経世済民」は成り立っていません。

 なぜ医療者なのに経済にこだわるのか、国の経済成長がなければ平時の良質な医療や危機に備えた余裕のある医療体制が確保できないからです。財源のパイが大きくならねば、国民の命を守るために必要な医療のみならず、防衛、食糧やライフラインに関わる予算さえも削られてしまいます。そして経済を正しい方向に導くのが政治です。国民に分け隔てなく、良質な医療を提供するためには否が応でも政治と経済に関心を持たねばなりません。

 先進諸国の中で日本だけがこの20数年、全くと言ってよいほど経済成長していません。実質賃金指数の推移をみると、日本以外の主要国がすべて15~40%上昇している中で、日本のみが10%以上も低下しています。1980‐90年代には日本の10分の1程度であった中国のGDPは、10年ほど前に日本を追い抜き、今や日本の3‐4倍にまで成長し、その差はさらに開きつつあります。なぜ日本経済だけが低迷しているのか、それは特にバブル崩壊後からずっと間違った経済政策をとり続けているからです。

日本はデフレ下で緊縮財政・増税とともに構造改革、規制緩和、自由貿易の推進、市場原理主義といった新自由主義政策をとったために長期のデフレスパイラルに陥り、不況を招いています。国民も「国を財政破綻させて将来世代にツケを残してはならない。痛みに耐えて我慢しよう」という財務省、経済学者、政治家、マスコミの吐く嘘を健気に信じてきました。これらはすべてインフレ時にやるべき政策です。実は「デフレの時にやってどうするんですか。これは逆噴射ですよ」という極めてシンプルな話です。

 「市場にお金が出回らないのが原因だ」として行った異次元の金融緩和もデフレ解消には全く無効でした。いくら日銀が市中銀行にお金を回しても、こんな不景気では誰も投資のためにお金を借りたりしないからです。経済の素人でも分かる理屈です。こういう時は国がしっかりと大規模・長期・計画的な財政出動を行い、国内の実体経済を活性化させねばなりません。これは国民より省益を優先する財務省の方針とは真逆です。これまでは投機的な金融経済にばかりインセンティブがありすぎました。

政府の支出には3種類あります。①公的固定資本形成:インフラ整備などで、必ず誰かの所得になり、かつ固定資産が残るもの、②政府最終消費支出:医療、警察、消防、防衛、官庁公務員などのサービス(労働)の対価として政府が支払うもので、固定資産は残らないが医療従事者や公務員の所得になる、③所得移転:特別定額給付金のような労働を伴わない支出、の3つです。これらの共通点はどれも必ず国民や企業の預金が増えることです。どの形であれ、国が支出した分は何らかの形で国民が潤い、実体経済は成長します。

 例えばコロナ禍で行われた国民全員に対する10万円の特別定額給付金の際、当時の麻生財務相は「国民の預金が増えただけで、お金は使われなかったから効果はなかった」という趣旨の発言をしましたが、これは明らかに間違っています。誰かが給付金を消費に使えば、それは誰かの所得になり、必ず誰かの預金が増えるからです。麻生大臣はお金が使われればそのお金は「消える」と思っているのです。消えません。必ず誰かの手元に残るのです。

コロナ禍にも関わらず、昨年度の税収は過去最高でした。財務省が喧伝する「国の財政破綻のウソ」を理解するには、まず税金に対する正しい理解が必要です。多くの政治家は「皆さんの血税を大切に使わせていただきます」などと言います。大半の人は、国は人や企業から税金を集め、そこから支出をしていると信じています。「税が財源」と信じ込んでいるのです。しかしこれは事実ではありません。少なくとも金本位制でなくなった以降の現代においてはこの思い込みを捨て、税の概念を180度変えねばなりません。国の歳出予算は税収に関係なく決められているというのが事実です。そして歳入では形式的に税収の不足分を国債発行で補う形になっているだけです。

現代国家では税の徴収よりも先に支出があるのです(スペンディング・ファースト)。まず国は市中に十分なお金を行き渡らせます。お金がたくさん出回ると人々の所得が増え、みんな積極的に消費を行うので景気は良くなります。しかし、あまり市中のお金が増えすぎると物価が上がりすぎ、貨幣価値が下がります。これがインフレです。だからインフレが過剰にならないよう市中からお金を吸い上げて上手く調整する必要があるのです。これこそが税金の最も本質的な役割です。税は市中からお金を消し去っているだけなのです。国民の税金は市中銀行を通じて日銀に回収されますが、お金は「貯まる」のではなく「消えている」、いわば「お札は日銀でシュレッダーにかけられている」ということです。大半の人はこれがなかなか理解できません。税の見方が変われば、世の中の見方も変わります。

では何の物質的な裏付けも金銀の担保もないのに何故どんどん貨幣が発行できるのでしょうか。それは国民・国内企業全体の有するモノの生産力や技術力など、供給能力の量や質の高さこそが貨幣への信用を裏打ちしているからです。これが日本のような成熟先進国の貨幣と発展途上国の貨幣の間にある大きな差、「信用の差」です。これが現代における「貨幣の信用創造」です。実は財務省も日銀も公的には理解し、対外的な説明はしています。金本位制は金の保有量までしか貨幣を発行できず、経済成長が阻害されたために破綻したのです。大半の人々は未だにこの「貨幣のプール論」から脱却できていません。

国力を高めるのは、国民が豊かになり、安全で幸せに暮らせるようにするためです。国力の源泉はその国が有する経済力です。この本質は株式などの金融資産や対外黒字などではなく、国民全体が有し、人々が欲するあらゆる「モノ」の生産力や技術力の総和であってその国の供給能力の高さです。ところがバブルの崩壊後の20数年、日本の国力は衰え続けています。国は、他に類を見ない超高齢化や少子化、生産人口の低下を理由に挙げ、安い労働力を得るために実質上の移民政策を進めていますがこれも誤りです。日本の産業、日本の持つ豊かな供給能力は今も棄損され後退し続けています。

その代表例が土木建設業です。地震国の日本は昔から様々な自然災害に苦しみ、それに耐えうる土木建設の技術を蓄積し、磨き続けてきました。これは日本と世界の橋梁や建物の構造を比較すればよく分かります。例えば地震国日本と地震のない欧州の橋梁の太さを見れば一目瞭然です。平時に世界各地で起こっている橋や建物の崩落は日本では見られません。デフレ期に入ってから、ハコモノは予算の無駄で、国の公共事業は悪だとされて建築土木の予算が削られた結果、日本の多くの土建会社は倒産し、今やその優れた技術を受け継ぐ人が不足しています。これこそが「日本の土台である供給力・優れた技術力の棄損」でなくて何なのでしょうか。

農業も然りです。日本は敗戦後、否応なく米国の国益に沿って自国の余った農産物の消費地にさせられ続け、今なお逆らうことが許されない状態にあります。一旦何らかの有事になれば、日本の食糧は外国頼みでお手上げになります。これが「食糧安全保障」です。つまり今の日本は国防だけでなく、国民の命に関わる食糧生産でも米国次第になっているというわけです。小麦や大豆の国内自給率は減り続け、最後の牙城ともいえるコメも今や瀕死の状態です。日本が世界に誇る質の良い和牛などの畜産物も実はその飼料のほぼ100%が米国などの海外に依存しており、これを止められれば日本の畜産農家は終わります。

日本の農業は補助金漬けで国に守られ続けた結果、国債競争力を失くしていると思っている人がほとんどです。だから世界で競争力のある特別な農作物に力を入れ、集約化して生産力を上げようというのが国の方針です。しかし日本以外の世界の国々は、本当の農業の価値を知っており、自国の基本的な食糧生産にはしっかりと補助金を出して保護しているのが現状であり、これが国際常識です。欧州では日本と同じような農業生産性の低い辺境の地の農民には国が多額の補助金を出して保護しています。多くの国が国境に接している欧州では、食糧安保の面だけでなく、これら辺境の農家は国防に役立っているという国民の意識があり、国民も補助を当然と支持しています。日本は四方を海に面しており、国防に対する意識が低く、平和ボケしていることも大きな要因ともいえます。

 またコロナ禍で問われたのは公的医療の供給能力でした。1983年1月の全国保険・年金課長会議において当時の厚生省吉村仁保険局長が発した「医療費亡国論」以降の緊縮財政で、「国公立病院の赤字はけしからん、公費の無駄遣いを失くせ」といって独立行政法人化を進め、民間病院と競わせ、病院の黒字化を求めてきました。当然空きベッドを減らし、人件費を削り、救急などの赤字部門は縮小ということになります。全国の保健所数もこの25年間で645か所(1996年)から470か所(2021年)まで激減させられました。その結果、コロナ禍のような非常時に余裕がなくなった、つまり医療の供給能力を減らし続けた結果として対応できなかったわけです。

今、コロナのパンデミックで世界各国の経済成長が停滞する中、賢明な欧米諸国はいち早く長期で大規模な財政出動に舵を切りました。しかし日本のみがひとり、バラマキ政策だ、財政破綻だという財務官僚や一部の経済学者の言うことも真に受けて、世界から取り残されています。中でも米国はコロナ前の順調な経済成長を取り戻すべく、昨年11月には1兆2000億ドル(約140兆円)規模のインフラ投資法案を成立させています。順調な経済成長を保っていた米国でさえこの規模です。

翻って長期デフレで経済低迷したままの日本はどうでしょう。日本の一縷の望みは昨年6月に経済産業省が財務省とは真逆の積極財政による「高圧経済」の新機軸を打ち出したことです。これは反緊縮財政、反構造改革路線への転換の述べており、特に財政出動についてはその構造改革アプローチを、財務省的な「小規模・単発・短期」から、「大規模・長期・計画的」への新機軸へと転換すべきとしている点で非常に画期的です。また、コロナショックで一部の国民や与党も野党も一部の議員が財政破綻のウソに気づき始め、ようやく積極財政や消費減税を言い始めました。これまで緊縮財政派であった経済学者も日本の財政破綻を徐々に言わなくなりつつあります。もっともオールドメディア、特に財務省ご用達の日経新聞などはいまだに財政破綻やコロナ消費税増税といった論陣を張っていますが…。

国の規制や管理をどんどん失くして国内産業を保護せず、すべてを市場原理に任せようとするのが新自由主義です。これが蔓延すると、人の心は徐々に蝕まれて強欲になり、「今だけ、金だけ、自分だけ」の人間がどんどん増えていきます。これこそが新自由主義の行きつく先です。競争は激しくなり敗者がどんどん増え続け、負け組に回るとみんな自己責任で片付けられてしまいます。こうして世界はごく一握りの人々による支配に収束して行き、世界経済の国境なき寡占化、独占化がどんどん進んでいきます。これが近年、世界が歩んできた道です。こんな弱肉強食の世界を理想としてよいのでしょうか。

先進国の中で小泉政権時に新自由主義信奉者の竹中平蔵氏が持ち込んだ「PB黒字化」を財政目標にしている国など世界で一つもありません。そしてコロナ禍の今、財務省のトップが「今バラマキをやったら財政破綻する」などと言っている国は日本以外にありません。どの国も経済への危機感から、国が素早く大規模な財政出動を行って過剰気味になるくらいのインフレに誘導し、必死で国の供給能力、すなわち国力を保とうとしています。日本はいったい何をしているのでしょうか。できるだけ多くの人が早くこの状況に早く気づき、経済失策で棄損され続けている日本の優れた供給能力を政治の力で復活させねば、近い将来、必ずや日本は中国・欧米の大資本に飲み込まれると危惧してやみません。 私は資本主義を否定するつもりは毛頭ありません。むしろ資本主義は国民全体の生活の質を上げ、皆が豊かになるには非常に優れたツールだと思っています。少し前に「岩盤規制をぶち壊す」、「聖域なき構造改革」とか言ってもてはやされた御仁がおられましたが、国という共同体に属する国民すべてを同等に守るためには、「削りすぎてはいけない聖域」があり、「決して壊してはならない岩盤規制」があるのです。特に医療・介護・福祉といった社会保障、国防と経済の安全保障、インフラを支える国内産業には規制緩和ではなく特別な保護が必要なのです。一旦棄損された供給力の復活には時間がかかります。もはや待ったなしのギリギリの状況です。これらがないがしろにされ、後退し続けているのが今の日本の姿なのです。これは決して右派や左派といったイデオロギーの問題ではありません。現在の原油高によるといったようなコストプッシュ型ではないインフレが過度になった時には自由主義的政策をとり、需要減によるデフレ時には保護主義的政策をとって健全でマイルドなインフレを保つ、というごくごく当たり前の、正しい経済の舵取りを政治に求めているだけなのです。